"表現"について

"表現"について


なにも俳優や芸術家だけの言葉ではない。


ネットに投稿することも、
ミサイルを発射することも、
遺書を書くことも、書かないことも、

激しく自分をアピールすることも、
沈黙することも、

全ては表現となる。

他者という観測者がこの世にいる限り、
自らの全てが"表現"と題される。

何かをすることが、表現ではなく、
生きていることそれ自体が、表現といえる。


表現とは生きることではないか


その存在自体が得た閃きが、一つの形となって現われ、
観測されてしまえば、それは表現となる。

つまり、意志があろうがなかろうが、
物理的に生きていようがいまいが、

「そこにあった意志」は、何かの形に変換される。

表現とは"生きる"ことではないか
「意思が生きていこうとする計画」

身体の生死も関係ない、
石ころですら、観測者達は「表現の塊である」といい放ち、
他者の意志が生きようとしていれば、
表現者が表現者自体でなくても、表現の発信者として扱われる。

では、生きるということはどういうことか?


生きることは、繋ぐこと


この場合の生きるは、仮に生物的な生死だとして、
何かを繋いでいくことが生きることなのではないかと思う。

今、生きていくことにより、何かを失ったり、
罪を増やしていったとしても、

その後生きていく者たちへの肥やしになる。

誰かの参考にされたり、
影響を与えたり、与えなくても統計データの一部にされたり、

ただ生きていくことが、その後生きていく誰かに繋がっていく。


生きていることに、一つの無駄も無いということではないか。


生死や意志と関わらず表現は生み出され、
生者たちはその後の誰かの何かに繋がり、

生きている者は、表現という意思の塊を受け取り、
生きている者は、生者たちの何か影響を受け取り、

ループしているように見せながら、
広大な輪のように見える螺旋階段を、
行進していく。


万物と食い合いしながら、互いを生かそうとしている。

決してあさましいこともでなく、
ただ、そこにそれらがあるだけ。

ただ、そこにいるだけ。宇宙が生まれた瞬間から、
ひたすらにリアクションをし続けているだけ。

虫と変わらない。光に向かって羽ばたいているだけで、
なんの目的もない。


目的が無いのであれば、そこに制限はない。

ゴールがあれば道という制限が生まれる。
でも、ゴールは無い。

ただ、宇宙が生まれたことへのリアクションの一つとして
私たちが存在しているだけ。

それならば、思うがままにやればいい。
勝手にゴールを作らず、
思いのままにやる。作為でもなく不作為でもなく、
思うがままに進めばいいだけ。


失ったかどうかは、自らが決めていい筈だ。


表現とは、つまり、自分で由とする、自由の道なのではないだろうか。

どんな制限も目的も縛りも体裁も存在しない、
自らの思い、行動、それらの総称のことを言うのではないだろうか。

その代償が何であったかなど、
本来、人に感知できるような情報量を越えていて、
アリが人の動きを知るようなもので、
関知出来ない。認識出来ない。

考える必要も、感じる必要も、理解する必要もない。
表現における責任を取れる人は世の中に誰も居ない。

「思うがままに行えばよいだけのこと」それが"表現" ではないか。
「思うがままに決めたルールの通りに」それが"表現" ではないか。


"タガを外しましょう"


あなたが生きてきた全てのことが無駄ではない。
あなたは、あなたか宇宙の奴隷に過ぎない。

じたばたしても仕方ないんですよ。

人は表現からは切っても切れない。

「その生き方が、作品になる。」

誰かの嘲笑対象か、誰かの参考か、誰かの尊敬の的か、
あなたの人生は、息している傍からそんな作品にされてしまう。

神様への捧げものとしてDVDに整えられて送られてしまう。

だから、タガを外しましょう。

せめて、"表現"と、仲良く。楽しく。


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